鉄とコンテナハウス

鉄への想い、現代建築素材、3つの原風景

水銀

幼少の頃、毎夏、父に連れられて夏休みの最初の週末は「海水浴」にいく慣習があった。海のそばに済んでいる訳ではなかったので、楽しみなイベントであった事を覚えている。バスや電車を乗り継ぎ、いつも決まった遠浅の海に連れて行ってくれた。海にアプローチする最後の交通手段は「私鉄電車」であった。日頃電車に乗る事はない年齢の頃なので「乗りもの」そのものが非日常であり、オトコを目指す少年には電車という「乗り物」も格好の興味対象であった。運転席の横の最先頭の窓の所に陣取り、進行方向と運転手の一挙手一投足を見つめる。なぜ「レール」の上を走る乗り物が出来たのか、その意味すら解らない年齢の少年は前方のレールを見つめる。そのレールの先には「海」が現れるはず。次第に景色が変化し、松の防風林などが現れ始めると海が近い事を既に学習していた。

レールは太陽の方向によっては「水銀を流した」ように輝き、車輪が走る面は光沢に満ちているのに、側面は錆色だ。そのコントラストは同じ「鉄」とは思えない。進行方向、見つめる先は「未来」だ。そして車内は「現在」。通り過ぎた景色は「過去」だ。なんだか本当にそんな風に思える。未来に向かって走る電車。この時輝いていたレールは「鉄」によって出来ている。レールをじっと見ると、そのソリッド感がたまらない。間違いなく「人工物」、しかも英知が生み出した人工物。30トンもの車両を支えるレールは、ソリッド感があるとはいえ、無駄な肉をそぎ落とした見事な形だ。

rail

鉄の事を考えたのはその時が初めてだろう。鉄道の本を読む。レールは時代とともに長くなり、ガタゴトいうその音の原因は「温度による膨張と収縮」を飲み込むための「隙間」を渡るときの音。現代では枕木に強烈なチカラでレールが固定してあり、その収縮さえ押さえ込んで「隙間」をなくし振動を抑えている。人知は発展し、様々な知恵をつけて行く。私の興味はしかし、電車にはいかず、レールという「鉄」に収斂して行った。

コンクリート

小生は「炭坑町」の生まれだ。竹を割った様な性格のさばさばした人間が多い、自ずとその性格は「短気」とも直結する。優しくて強くて押しが強くないと生きて行けない世界だ。その「炭坑町」は全国の炭坑町と同じく、新エネルギーの登場で衰退期であった。
街のそこここに「廃屋」がある。少年たちにとっては、イコール「遊び場」である。悪ガキたちと病院の廃屋でかくれんぼをしていた時だ。中庭に「井戸」があった。もう内部は土が入れられ廃井戸となっているから決して深い訳ではない。その中に隠れ、横たわり空を見上げると井戸の中から見上げた空は、井戸のまあるいコンクリートの縁に切り取られたまあるい空が見えた。コンクリートにきれいに丸く切り取られた空が奇麗だった。「空を切り取るコンクリート」。「コンクリート」を初めて意識した日だ。

コンクリート

ガラス

私が幼少の頃といえども、「ガラス製品」は普通に存在した。ガラスの器、ガラスコップ、窓ガラス。特段珍しい訳でもなく、いや、むしろ手の込んだ「切子のグラス」なども普通に存在した。工芸の世界である。昭和の30年代の事だ。まだテレビが普及し始めようとしていた頃だろう。家のテレビを見に、近所の子がやって来ていたりしていた事も覚えている。そのテレビのニュースを見ていた時、海外のニュースを伝えるコーナーでフィリップジョンソンの「ガラスの家」が紹介された。実際の建設年からすると数年経っての紹介だ。だんだん噂になってからの紹介だったのだろう。
フィリップジョンソンという建築家の作品とその時伝えたかどうかは記憶にないが、その映像を明確に覚えているのでミースファンデルローエの「ガラスの家」ではなく、フィリップジョンソンのものだとわかる。その事実は今となって分かる話だが、そのときの衝撃は「ガラスで家を造れるのか」という驚きだった。家の中を動く人の姿もニュースの中では見え、当時「未来感覚」を感じた事を覚えている。衝撃的に「ガラス」を初めて意識した日だ。

ただ、気の利いた日本人なら、こんな建築、昔から日本にはあるじゃん。という事を思うかも知れない。木造軸組工法(日本の伝統的木造工法)のビジュアルには近く、ブルーノタウトが海外に紹介し、多くの海外の建築家に影響を与えた桂離宮なども同じジャンルに見えるかも知れない。障子の部分がガラスになっただけじゃん。って。しかし、構造の方式は大きく違う。

ガラスの家
ミース・ファンデルローエ(ガラスの家)

ガラスの家
フィリップ・ジョンソン(ガラスの家)

※余談 ミースとフィリップ・ジョンソンのガラスの家の大きな違いは、ミースのそれは「宙に浮き」フィリップ・ジョンソンのものは大地にどっしりと根ざしている。重力からの解放を狙ったミースと、大地の上の空間を切り取ったフィリップ・ジョンソンの思想は大きく違う。しかし彼らはよく仕事を共にしている。ミースは根っからの大建築家、フィリップ・ジョンソンは哲学者からの変異建築家。「技術的技量」と「美意識」の総合力はミースという一般的認識は、両作品を見るとわりと明確か・・・・。

「鉄」「コンクリート」「ガラス」。それらは人工物でありながら現代生活ではしっかりと根付き、まるで自然素材のように存在している。この三つは言うまでもなく「現在建築の三大素材」である。現代でもなおこの建築3大素材に加われるものはない。あとは性能を上回る特殊代替品や、その特性をさらに拡大させた改良品が多い。人が作り出した素材ではあるが、すべて元は自然のもの、人為的な化学的成分などは入っておらずその部分でも長く使われる素材としての要素を持っているのかも知れない。

鉄は日本の高度成長期を見守りながら成長して来た。他の要素も同じであるが、様々な利用方法は、その多様な形を「整形」出来るからこそ生まれた世界がある。そして「溶接」という「結合方法」から生まれる世界もより多層的な世界を生み出した。コンテナハウスも鉄骨造である。溶接の技術は極めて重要な要素である。コンテナハウスに興味を持つあなた。もしも本気で考えるなら、頼もうとしている会社に「溶接について語ってもらえないでしょうか?」と聞いてみてください。溶接について楽しげに語ってもらえる会社に依頼するのがいいかも知れません。