コンテナハウスのデザインコード

コンテナハウスのデザインコード

IMG_19731-620x413

デザインのコード (code)      記号・暗号・規約などと訳せば意味は分かるだろうか。

デザインのモード(mode)      見せかけ、道、外観、マナー、ショー、モード

デザインのノード(node)    接点・結節点・節

デザインのオーダー(order)            秩序・指令・順位・体制 などと言えばニュアンスはわかるだろう

デザインされた空間であるかどうかを見極める超重要語句である。

IMG_2435

どのような方向であろうとこれらの語句で空間を見たとき、
それらにある一定の「機序」があれば
明らかに「意思」が入った空間である事を理解出来る。

IMG_19781-620x413

コンテナハウスであろうが、コンクリートの空間であろうが
それらをコントロール出来たとき
ある種の「驚き」や「感動」、あるいは「意思」を伝える事が出来る。

私どもは「デザインされた空間を作る」を目指している集団です。
コストコントロールをしながら、リーズナブルなデザインされた空間を作ろうとしていますが
貨幣的な価値の意味合いで「安い」ものを作るとしている訳ではありません。

コンテナハウスとマニエラ(デザインの手法論)

カタチあるものを設計して行くとき、概ね何らかの「手法」によって進めて行く事が多い。


画像はレオナルド・ダ・ヴィンチの【ウィトルウィウス的人体図】。人間のプロポーションと図像学との関連性を説く図だ。

デザインの手法論とは、分かりやすく言えば「万能モノサシ」のようなものだ。物事を選択して行く「はかり」がないと、物事を決めて行くのは難しい。カタチを決めて行く作業も同じ事で、プランを決めるとき、垂直方向のビジュアルを決めて行くとき、今書いた「プラン」と「垂直方向のビジュアル」という言い方そのものも、そのような決め方をしているという「マニエラ」の話でもあるのだ。

つまり、決めて行く手法と手段と序列みたいなものがあり、「モノ自体」が持つ「特徴」には手法と手段と序列のような関係は実は曖昧にも関わらず、生み出して行く時にはそれら「手法と手段と序列」のようなものがある方が組み立てやすいという特質を持っている。しかしながらこの事が、実はデザイン作業に支障を生み出す事もある。アートという世界で考えるとその事は了解しやすい。基本的に理論に沿ったアートという世界もあれば、それがないからこそアートという考え方も成り立つからだ。

「Notes on the synthesis of form」という論文を書いた「クリストファーアレグザンダー」という、数学者から建築家に転向した有名建築家がいるが、その方のモノを背敬して行く時のマニエラの理論は、わたくしは少々感化されたものだった。極めて理論的で数学的なデザイン理論。しかし最終的には極めて図像学的な手法と言えるものだった。

当社は、デザイン作業はコンテナに関して言えばとんでもない数のプランを描き続けてきた。その経験値は力にもなるし、足かせにもなる。マニエラは常に更新されて行くべきものなのである。

クリストファーアレグザンダー Notes on the synthesis of form

コンテナハウスはコンテナっぽくない時もある

0001

コンテナハウスはみな「コンテナ」っぽいかというと、そうではない作りも簡単だ。

仕事が詰まって、スタッフ共々ドタバタと仕事をこなしているときも活気があり、何かが作られて行く様をそのまま表していて楽しい。また同様に、あるいは反対に、少し目の前に迫った仕事の事を忘れて、一人でアトリエで勝手な仕事をしている時が最も心地よい。(それでもやっぱ仕事してるのか・・・)。

建築は実はテクストだ。「最も文学に近くて遠い物理的構成物のレトリックの世界」だ。つまり建築物を造る事は「物語を書く事」に概ね等しい。それは「ある一つの世界」を描く事になる。独立した物語りなのか、周りの状況に溶け込んで行く環境一体型の拡散型世界なのかそれは設定によることになるのだが、建築家の作業は小説家のそれに似ているように思えるのである。

構成の方法をよく、言語論的アプローチ、あるいは構造主義的アプローチを試みる。一方で建築も総合芸術の一つのジャンルであり「わたくしたちの中に潜む自由な表現の発露」を具現化する事が建築としての表現の一つであろうとも信じている。その構成のアプローチやマニエラが仕事の質を決定づけるものでもない。

アートとして考えた時、クライアントの存在が消失してしまう。故に昨今の私どもの仕事は「作品」ではないと考えるのが正しいし、「私どもは作品主義ではない」と公言している。つまり仕事に関しては「顧客主義」を貫いている。しかし、気弱な言い方をするならば「アート的要素」には建築は満ちていて、その要素を抜きに仕事に臨むことは出来ない。

一人だけのアトリエでは、時間すら自由に流れて行く。流れて行っていつの間にかなくなってしまうが(爆)心地よい倦怠感の中で、あんなことや、こんな事(謎)を考えていると、明日への希望や勇気やアイデアが生まれてくるのである。

話はもどり、コンテナっぽくない作り。
アノニマスに近いリージョナル建築デザインコードをいかに自分の中で消化し、人のために仕事の中に埋め込んでいくか。そのコードは、ギリシャ(爆)。ミコノス、白&ブルー、しっくい、手作業、まあるいデティール、地中海イメージ。そんなシナリオを経て出来たのが、外壁を覆い隠し、モルタルで塗ったこのコンテナハウス。そんな事も出来るのである。

コンテナハウスと演出論

armani

「演出」という概念はデザインの世界の場合しばしば使われる。
「デザインの世界」には裏に潜む力として「象徴力」=「サンボリスム(仏)」のチカラが潜んでいるからだ。「何かを象徴的に表す力」のことだ。その「何か」を選択しながらデザインは進められる。

その選択を確かなものにする為に「デザインコンセプト」を決めて作業は進められる。デザインで目指すテーマの事だ。デザインコンセプトによってデザインのシナリオが決められて行く事になる。

商業的な話の場合は実はこの事は比較的進めやすい。目的がはっきりしているからそのデザインコンセプトも比較的照準を絞り決めやすいからだ。

しかしながら「ハウジング」の場合は少々難航する。住むのはクライアントであるあなた様方。「わたしどもの知った事ではない」からだ。もちろんプロフェッショナルとして進言させて頂く事は沢山ある。環境要素や、修景要素、利便性、快適性、空間的要素による雰囲気の変化、照明計画による演出性、消費電力に関わる話、等々枚挙にいとまはない。

比較的、社会性のある外観などは社会的な要素も鑑みながらお考え頂きたいとは思いますが、あなた様のご自宅ですから、お好きなように考えてください。
それをお手伝いする仕事ですから、手助けしながら考えるのはいっこうに構わないのですが、「こんな感じ好き」「こんな感じも好き」「一方でこんなのもいいんじゃないかな・・・」
さて迷路に入り込みました。それを整理するのが「デザインコンセプト」です。まあ、言わばあなたの「デザイン憲章」みたいなものです。

ただし「こうしなければならない」という事もない。例外のある憲章を作れば気が楽にそして纏まりのあるデザインにしていけるでしょう。

やがてSITEに「住宅デザインの進め方」でも掲載しましょう。

料理は建築だ。そしてコンテナハウス。

inloco

料理という世界は実は建築の世界に似ている。

根幹を形成する「基礎」があり、料理の世界ではそれは「出汁」であり、基礎の上に構築されて行く構造物は、料理でいえばその料理を構成する素材のストラクチャーだ。デザイン的な処理は、料理でいえば見目麗しいビジュアルである。

話は少々ずれるが、
この写真の野菜達は実は「コンテナの中で栽培される」=「コンテナ型野菜工場」で作られる野菜達である。クリーンルームで育てられた「きれい野菜」たちだ。洗わなくても心配するには及ばない。

台風が来ても、冷夏でも、猛暑でも、厳冬でも生産効率は落ちず、安定供給が出来る。
もうすぐデビューさせる「コンテナ型野菜工場」は、既に生産のノウハウを固め、安定供給をし、市場に出回らせているある企業が行う。私どもはそのコンテナを、また新たな構造方式(ハイブリッド構造体)で作り上げる。もうすぐ発表、新たなコンテナハウスの世界。このコンテナハウスはコストへの挑戦でもある。ただし「4号建築専用躯体」、ちょっとみそっかすの小建築用だ。

iceplant

栽培されたアイスプラント。シャキシャキ感がとてもいい。ちょっと塩味がある不思議な野菜。

2020年。年の初めに。コンテナハウス回想。

「コンテナ」をテーマに建築を初めてかれこれ20余年が経つ。その間大きな動きは平成19年の建築基準法改正の時だ。建築基準法は厳格化され(まあ、いい事だと思っている)、大きく世の中建築業界はシフトした。

その時に概ね「コンテナ」は使えなくなった。法37条の「JIS鋼材を使うべし」という部分でだ。いや、正確にはもっと以前からそうだったのだが、とやかく言う人は少なかったので何となくコンテナ建築というのは存在したのだ。作り始めてだんだん気づいて来たのだが、実はコンテナの有用性は一見LOHASな「中古利用」というリサイクルなメリットよりも、輸送用コンテナが築いてきた「世界中へのチェーンロジスティクスのメリット」の方が建築に取ってきわめて大きいという事実だ。

imgres

その事は、建築の世界ではかつて「メタボリズム」というムーブメントがあった。『メタボリズム1959年黒川紀章菊竹清訓日本の若手建築家都市計画家グループが開始した建築運動。新陳代謝(メタボリズム)からグループの名をとり、社会の変化や人口の成長に合わせて有機的に成長する都市や建築を提案した。』(WIKI)

建築を学んできたものであれば、日本の建築家たちが生んできたこの概念が建築にとって大きな可能性を秘めている事を知っているだろう。そしてコンテナのロジスティクスを活かせれば、メタボリズム建築の可能性がかなり広がる事に気づくであろう。

images

その実現化に向けてゆっくりとだが確実に近づき、システムを築き上げてきたのが当社のシステムだ。ハードルはいくつもあった。日本の建築基準法は極めて厳格だからだ。海外との協調でそれを超えて行くには強い意志が必要だ。

そのシステムは完成した。

サービス付高齢者専用住宅とコンテナハウス

ジャパンシンドロームとコンテナハウス

超高齢者社会がやってきた。ジャパンシンドロームというコトバが生まれ、世界の先進国が、やがて自分の国にもやってくる状況として、日本の行く末に注目している。

高齢者の社会福祉についても色々な施策がとられているが、老人介護系の一つの取り組みとして「高齢者のための住居」を何とかせねばならないという取り組みの中に「サービス付高齢者専用住宅」というものがある。
ある基準をクリアすると国からの補助金も拠出されるという世界でもあるが、この「基準」をクリアさせてご高齢者用の住宅を設計すると、補助金で助けて頂きながら設計した物件でもなかなかの高級住宅になり、一般的な高齢者で「年金」などが生活の糧という方にはとてもじゃないが入られる家賃ではなくなる。

国の施策は間違っているのである。補助金などいらない、ある意味ご高齢の方にはこの程度の住宅を準備してあげたいという指針はいいのだが、現実に則していなけれ施策の意味がない。事実多くの「サ高住」に空き部屋が出ている。この「サ高住」はそして「デイサービス施設」などと連携されている必要がある。ただ住まわせるだけでなく、適切なデイサービスなどと組み合わされて、高齢者の生活のノーマライゼーションに寄与し、国家の福祉予算を低減させる効果を生み出さねば本来のこの施策の意味がない。

建築としての結論。
年金や生活保護で入所する事が出来、居住生活だけでなく、デイサービスなどの老人介護も受ける事が出来る施設の開発をせねばならない。これは非常に急務なのだ。

そして、そのソリューション。
ここでコンテナハウスが登場する。このサイトをご覧になっている方々は、当社のコンテナハウスが決してバラックなどではなく、「何処までもハイエンドなものまで作り込む事が出来るシステム建築」だという事を理解して頂いているだろう。そのひとつの解として当社は量産型「サ高住ユニット」をデザイン中だ。
少々細かな要求は聞きづらいが、画期的ローコスト専用構造体に、必要で充分な機能を搭載し、年金でサービスを受けながら生活が出来る。人間の尊厳を持ちながら人生の余韻を楽しむ事が出来る居住ユニットだ。

800px-Zulu_flag.svg

組み合わせの妙もコンテナハウスならでは

コンテナハウスの一つの魅力は「組み合わせの妙」です。まるでレゴブロックを組み立てて行くように色々な構成を考える事が出来ます。

当社のコンテナは既に「システム建築」として開発されていますので、その事(組み合わせ)にとても自由度を持った設計思想で作られているところがそれをサポートします。

コンテナのユニットは必ずしもきっちり並べて行くだけでなく、コンテナとコンテナの間の空間を調整する事によって微妙な寸法にも対応する事が出来ます。このテクニックが敷地を上手に使いながらプランも自由自在に作り出す基本となっていきます。

tsunoda_base

20FEETX7本で構成されたこのガレージハウスは1階に20FEETが縦に、20FEETの横幅をあけて配置され、2階に横向きにしたコンテナを4台90度振った状態で載せてある。

この1階の空隙が「ガレージ」として2カ所、シャッターがついている部分が「コンテナの空隙」の場所だ。空隙と言っても20FEETコンテナ2台分以上の空間があり、総合では13本分くらいの床面積を7台で作り出している事になる。

面積がある分それなりの建築費だが、坪単価で言うと、重量鉄骨なのに60万円台の工費だ。(2階の内装はクライアントのセルフビルド)

組み合わせのパターンは今までに色々と作ってきたが、無限に考えられる。比較的クライアント自身も参加出来る作業でもあるので、クライアントも楽しんで計画に参加してくれる事もある。

コンテナは海を越えてやってくる

IMG_2428

コンテナの工場はすべて海外だ。

中国、韓国そしてタイ。最大の供給国は中国。それぞれに特徴があり使い分けています。
コンテナが持つシニフィエ(意味内容)には多くの言語が隠れています。それゆえ様々な人々が「素材」としてコンテナを色々なものに利用したいという欲求に駆られてくるのだろうと思います。

カタチあるものをデザインすると、そのモノにはある種のコード(言語コード)が含まれて行く事になります。建築家やデザイナーはその形態言語を読み解きながらデザインをして行くのです。

コンテナというコトバにいったい何が含まれているでしょう。横浜や川崎の海岸線に積まれたコンテナを見て何を思いますか?海を渡って届いた荷物。食材だったり、機械の部品だったり、衣料品だったり、怪しい荷物だったり、そのコンテナにはある事業家の夢が詰まっていたり、明日の渋谷に賑わいをもたらす、カッコいいトレンドの服が入っていたり、その積まれたコンテナの陰では反社会性力自身の戦いが行われていたり(考え過ぎ?)想像する方によってとても様々な情景が浮かぶのでしょう。

クライアントの希望を聞きながら住宅や商業施設や、プラント系のコンテナなど様々なコンテナ建築をデザインして行きますが、設計され、製造されたコンテナは「海を越えて」やってきます。なんだか少し面白い感覚を覚えます。時代は今やインターナショナルですが、建築の仕事というのは、設置される敷地の状況や地域の特性に合わせてデザインされて行きます。

Think globally, act locally.

というコトバがあります。時代はまさにそういう状況になり、世界的視野で物事を考え、地域の事を重んじながら実際に動かないと時代に即応した結果を得る事は出来ません。

コンテナが海の向こうから運ばれて来る度にその事を思い出しています。

コンテナの可能性と遵法性

IMG_2371

コンテナを使って○×に利用するという発想。その事自体は悪い事でないし、むしろ一つのアイデアとして面白い発想です。私どもも、かつてはISOコンテナを改造して楽しんでいた。今ある不用のものを使って新たな命を吹き込む事も「エコロジカル」な思想の代表格という事は出来る。また、ある意味「コンテナを利用してこんなものを作っちゃた!」というのも驚きの一つとして存在する世界だ。

しかしながら、人の命や財産を守る空間として存在する建築には、法治国家日本として、その安全性の水準を高く守らねばならないという責務があり、それが「建築基準法」というカタチで存在している。コンテナであろうが、何であろうが人が生活したり、活動したり、それらの拠点とするものは「建築」と認識される。具体的なポイントは設備系の繋ぎ込みだ。(電気設備・給排水設備)。生活のベースとなる「インフラストラクチャ」が繋がれていれば、継続的に使う為のもの=生活拠点・活動拠点=居室=建築物。という考え方だ。なるほど、国土交通省も色々考えて「継続的に使っている証」とは何かを考え抜いてみたのです。そしてその事は割と説得力があるように聞こえます。

国としては「建築物とは何か」を明確にして世に向かわないと、いい加減な対応になってしまうから重要なポイントだ。では、そのような使い方「継続的に居室として使っている」場合は「建築物」である。と認識されると「建築物なので、国内の法律である<建築基準法>を適用します」という事になり、基礎を作って緊結しなさい。また使用する材料については、建築基準法第37条によってJIS材またはJAS材、または大臣認定材料を使いなさい。という法律が適用される事になり、建築士にある程度まかされた「4号建築」の場合もその建築基準法第37条は外された訳ではなく、建築主事の裁量にゆだねられるのでしょうが、この法律の縛りは残るのです。

ISOコンテナは日本国内では作られておらず、すべてのISOコンテナはこの建築基準法第37条を外れる事になります。ここが問題なのですが、担当の行政の「建築主事」がOKを出せば大丈夫です。そしてこれは「行政」によって結論は違います。我々が「業」としてコンテナ建築を進める時はこのファジーさは命取りです。それゆえISOコンテナで建築を進める事はやめました。ビジネスとしては危険すぎるのです。建築主事が常に「OK」を出すものでなければならないのです。それを分かっていらっしゃらないコンテナ改造屋さんは未だに「誰がISOコンテナを使うと不法といっているんだ」などと、子供のような事を申されます。

我々は唯一の回答である「常にOK」でなければプロフェッションにかかわるのです。それゆえ必ず建築確認申請」を通る躯体を開発致しました。開発するという事を決めたトリガーは、構造形式もあるのですが、決断した最後の一点は「建築基準法第37条」なのです。それをクリアーした躯体は実は、国内であればすぐに可能ですが、それを国外の「コンテナ工場」で製作するということにするにはハードルがいくつもありました。
そのハードルについては語りません。そこは実はPAT.を取るよりも苦労した部分で、まさにこれが「肝」の部分だからです。物理的にもこのハードルを最初から超えようとすると「5年」はかかります。今更20年間の努力をしながら当社を追いかけるのは一般的に大変です。そしてその事は「参入障壁」そのものです。

オンリーワンのナンバーワンを目指して走り続けます。