MEDIA LITERACYとコンテナハウス

「情報メディアを主体的に読み解き必要な情報を引き出し真偽を見抜き活用する能力」
これがメディアリテラシーの意味だ

インターネットが多くの場で活用される現代。メディアリテラシーあるいは個々の世界での「リテラシー」という概念が重要になっています。かねてより私くしどもは申し上げていますが、インターネットの黎明期からインターネットの広がりを見て来た人であれば自然と理解しているのですが、物心ついた時にすでにインターネットが普及している世代の方々が危ないのです。

大きく影響をする部分は、マスメディアの中でもテレビやラジオなどの「放送」の世界の感覚そのままでインターネットの世界に入り込んだ時です。「放送」の世界では、1対Nという関係上、読み手、聞き手、聴視者を選択するものではなく、多くの人々を無選別に相手をする関係から「放送法」という法律があり、放送内容に関して一定の基準や規定が存在します。「放送禁止用語」などというコトバは皆さんも良く知っている通りで、使えない言葉などもあるわけです。

放送法の(目的)
第一条  この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。
一  放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。
二  放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。
三  放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。

上記の放送法の書き出しだ。これは目的なので、もっともらしい事が書いてありますが、頭の弱い人が、間違った「放送」によって洗脳されたり、間違った社会認識をしたりしないように、あるいは「放送」が反社会的な目的のために使われる事がないように、法律でしっかりとした内容、用語、などの規定が決められているのです。結果的に誤解を招くような事を放送では極力防止しようという趣旨となります。

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例えば、今度は「電話」という手段を考えたとき、放送の概念とは全く違った意味を持ちます。なぜなら基本的にはこれは1対1の世界ですね。それは「放送」ではなく「通信」という世界になります。通信の世界では危ない話をしようが、エロい話をしようが、反社会的な話をしようが、それを咎められる事はありませんね。多くの方を巻き込む訳ではなく、1対1の関係だからそこは大きな規制をする事はないのです。

問題は「インターネット」です。

この世界では技術的には、ニコニコ動画のように、実はまるで「放送」のような事も出来るのですが、技術的にはあなたがニコニコ動画のサーバーにアクセスしてそのデータを取って来て初めて動画を見る事が出来るという関係からこれは放送法のいう「放送」ではなく、あくまでこれは「通信」。それも1対1通信の概念に入ります。

したがってここでは放送法は適用されず、エロでもグロでも、反社会的な事でも法の縛りを受ける事はありません。サーバーを持っているプロバイダー自身が持っている基準で、サービス内容に私的な規制する事はありますが、自分でサーバーを立ち上げインターネットに接続をするのであればその規制さえもなくなります。またこの話は「著作権」や「知的所有権」「肖像権」などの固有の権利とは別の話なので、それらに触れる事になるようなコンテンツは別の意味の法の縛りは受けます。

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インターネットの情報の海は「嘘も含めてインターネット」。嘘を言ってもいいという訳ではなく、嘘かも知れない事を書いてあっても規制は受けないので、「読み手のメディアリテラシー」が非常に重大な要素になってくるという事をいいたいのです。情報の海で遭難者にならぬよう、個人の能力を高める事しか最終的にはこの問題から逃れる事は出来ません。

インターネットのおかげで世の中は劇的に変化しました。ただ新しい世界なのでそこでの犯罪や、考えもしなかった負の方向の出来事も起こっています。それらに対応するにも「読み手のメディアリテラシー」がベースになります。もちろん「発信側のメディアリテラシー」もとても重要ですが、必ずこの部分では「愉快犯」的なものや「確信犯」的なものは避けようがないので、自衛力を持つ事が最大の防御となるでしょう。

コンテナハウスは自律的に人生を生きている方々には「面白い世界」です。飼いならされ日本社会で、あるいはサラリーマン社会で「なんとなくあるべき状態」として日々を生きている方々に取って、セキスイハウスやパナホーム、住友林業の家(いや、本当にこの四半世紀の間にものすごくレベルがあがりました。それは敬服いたしております)という世界こそが「いつかはクラウン」みたく、住宅としていつの日にか取得したい世界として、まるで最初からあったかのごとく(それはまるでテレビの番組のように、あるいはクルマをカタログを見ながら選択するかのように)「イエ」とはそのようなものだと特に考える事もない方々の「イエ」の存在があり、その選択をいつかはしようと思っていたならば、突然現れた「もう一つの選択肢」まではいかなくても「もう一つの別の世界」としてコンテナハウスシステムは生まれてきたのです。

実はそのような世界はいくつか存在するのです。建築家に依頼して全く別の世界として「住宅」を設計してもらう事も可能です。あなたのコンセプトを建築家に伝え、そのコンセプトで「イエ」をデザインしてもらう。唯一の世界。なんだか上の「メディアリテラシー」の話で出てきた1対Nと1対1の世界と同じ話になってきました。住宅メーカーの「イエ」は放送の世界に近く、建築家に依頼する「イエ」はインターネットの世界のように1対1の通信世界のようなもの、コンテナハウスも同じ部類なのです。

コンテナハウスXインターネットの意味はそこにもあるのです。

Dedicated to United States Armed Forces 究極のHEAVY DUTYコンテナハウス

米軍や、防衛省、あるいは民生用としては防災用に開発した「HEAVY DUTY accommodation unit」。当社は右傾化企業ではないが、日本国を愛している。技術をベースにアートな活動を目指す建築家集団だ。

動的に変化する建築。
当社の建築は基本「移設」が可能な建築を開発しているが、ここに掲載するものは「動的に変化する」最もラディカルなシリーズだ。

その事そのものは建築基準法上微妙に感じるが、このスケールならば基本材料などに問題なければクリア出来るはずだ。ビューローベリタス・ジャパンには確認を取った。ここに掲載したものは米軍の為に開発したものだが、装甲板(謎)を普通の建材に変えて民生用に販売も可能だ。設置する場所の「用途地域」その他の規制に合うかどうかは、もし設置を望めばあなたの土地情報をください(爆笑)。チェックして差し上げます。

私の好みはA-3TYPEだ。庭においてやがてやってくる東海トラフ地震に備えたい。格納時の約三倍に居住空間が広がる。家族四人でも快適にとは言わないが、がれきの中よりは遥かに快適に過ごせ、太陽光発電とバッテリーによる蓄電でエネルギーも確保している。ウォータータンクには1ヶ月分の飲み水と、食料ケースには食料が備蓄されている。残念な事に「放射性物質対策」は施されていない。

快適さでは完全にA-2のものだ。なにせ拡張出来るにも関わらず、ハードトップだから風で揺れる事もないし、断熱性能も抜群だ。しかし価格が・・・・・。

当社の作品の盗作は後を絶たないが、これはムリだろう。(爆笑)

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コンテナハウスのリアリティ。寄宿舎としてのコンテナハウス。

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最もローコストなスケールに近いのがこのスケールである。
この図は14本だが、40FEETを16本使い460㎡のブロック(500㎡以内)を作るのが一番コストパフォーマンスが高い。寮や寄宿舎であれば最も防災系の設備のウエィトが低い。管理用のIT技術を導入すれば現実の安全性も法的設備とかぶらずに効率的だ。最大30室のブロックとなり、5ブロックで150人。共用施設として「食堂」などを別棟にすれば、この程度のボリュームをブロックとして集合させて行く程度がヒューマンスケールだろう。ホテルへの応用も効く。1ブロックで共用施設を作って合計6ブロック。

図面が思わぬ所まで勝手に出回るのであえて掲載。オリジナルは当社です。この計画は複数進んでいる。
著作権法で保護されております。勝手に他人の著作物を使わぬよう法治国家のルールを守りましょう。

仮想/現実社会_2重社会融合論 インターネットとコンテナハウス

インターネット仮想社会と現実社会が重なり両世界が現実社会そのものとなった

私がホームページを立ち上げたのは1995年だ。多分日本の建築家の中ではトップクラスに早い時期だ。ブラウザもネットスケープナビゲーターの前身Mosaicを使っていた事を覚えている。もちろんyahoo_japanもなく、まだまだ国内の検索エンジンはドラゴンサーチという個人が立ち上げた検索エンジンくらいだった。私は、当時この「インターネット」がデビューした衝撃に心を打ち抜かれ、もの凄い変革がやってくるこの数年に対して極度の興奮を覚えた事を記憶している。「大きな変革のきざし」それは、その時想像出来た範囲を大きく超えて変革は進んで行き現在に至っている。そして今は2014年。あれから19年が過ぎ、仮想空間と呼ばれたWWWの世界は実はすでに実態社会そのものと溶け込み、かつて大きな話題作となった映画(マトリックス)とほぼ同じ状態が現代社会だという実態に皆さんは気づいているだろうか。

そんな事も知らずにのんきにアナログの世界だけで生きて行けている人は仕合せなのか不幸なのかはどちらでもいいが、日々進んで行く仮想世界と現実社会の一体化はとどまる所を知らない。

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解りやすい例を挙げよう。アマゾンだ。あなたが街中に住んでいようと、田舎に住んでいようと、雨降りの中を濡れながら買い物に行く必要もなく、いってみたのに「欠品」していて、わざわざ出かけたのに欲しいものはゲット出来ず悔しい思いをするくらいなら、ネットでアマゾンに出かけ、欲しいものを注文すると、なんと次の日には届いちゃう。そんな便利さに慣れ、ついついアマゾンでお買い物をする今日この頃。そういえばアマゾンから最近はピンポイントで自分が気に入るような品物の情報が届き、またまた、ついつい買ってしまいます。アマゾンの画面にいってご覧なさい。トップページからあなたの興味あるものばかり。なんて親切なんでしょう。(爆)
IT技術と言いますね。ITとは一体なあに?インフォメーションテクノロジーの略称です。情報伝達技術のことなのです。そのテクノロジーは飛躍的に向上し、インターフェースは画面だけではなくその裏のコントロール技術も含め驚異的な発展を遂げているのです。

あなたのお買い物データはあなたの志向性としてストックされ、あなたの好みや興味の対象がアマゾンには筒抜けなのです。その志向性にマッチするものをアマゾンは自動的にセレクトして、対象商品がディスカウントされているときなどあなたにダイレクトメールを出します。ピンポーン。その通り、これが欲しかったんです。ワントゥーワンマーケティングの基本的手段ですが、あなたはあながち嫌ではない訳です。仮想世界があなたの生活の裏に張り付いてあなたをサポートします。別の言い方をすると、仮想世界があなたの生活の裏に張り付いてあなたをコントロールします。いや、私はいいの。私の好みを解っていてくれて私に有益な情報をくれるのですもの・・・・。ま、そんな感じです。メディアリテラシーの話と重なってくるのだが、解った上で上手な利用をしないとコントロールされてしまう可能性もあるのです。しかし、確実に仮想社会は現実生活シーンと融合をし続けています。切っても切れない関係になって来ています。

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融合は避けられません。圧倒的な利便性と単純な反応ではなく、あなたの変化にもついて行けるデータベースも作られ始めているのです。あなたの加齢も、子供たちの成長も見守っています。しかも一分のスキもなく、忘れる事もなくあなたの生活に「よりそう」カタチで優しくつきまといます(爆)。リアル店舗はショールームと化し、誰も実際に商品を買わなくなるでしょう(ちょっと大げさ)。さらに大きなあなたの情報をつかんでいるのはgoogleです。もう仮想世界ではあなたと同じ人格のモデルが形成され今後この人とどうつき合って行くかが検討されているのです。私とてそうさ、仮想社会にもう一人の私が棲んでいる。対峙するものではなくパラレルに生きる私のもう一つの姿として・・・・。まだまだトランスペアレントだが、次第にその影が強くなって来ている。そんな社会に馴染んで強く生きて行く方法は、その事自体をよく理解している事です。

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我が社ではコンテナに興味を持つ方々に積極的にアプローチし、その購買意欲をそそるような積極的IT活動は行っていないが、ほとんどのお客様は「インターネット上のHP」をご覧になってアプローチなさる。それは「コンテナ」というテーマがどちらかというとなかなかコアな世界だから「インターネット向きのテーマ」なのだ。しかしながら当社も仕事のフィールドが広がり、決してすべてのテーマが「コア」ではなくなってきた部分もあるので、そろそろインターネット以外の社会へのアプローチも始めた。インターネット上では色々なと問い合わせが増えてきたので、ネット上のカタログを整理し始めた。その運用もそう先の事ではない。

豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)とコンテナハウス&パン

日本は、自然風土に恵まれた美しい国です。春・夏・秋・冬、四季折々の恵みは、私たち日本人の生活に潤いと豊かさをもたらしてくれます。自然の恩恵に深くあずかってきた日本人は、自然のなかにあらゆる生命を育み、豊饒(ほうじょう)や繁栄をもたらす生成力を認めてきました。さまざまな自然現象に、神々の恵みと働きを感じとってきた日本人は、自然と調和した生活を理想とし、自然と触れ合うことによって、絶えずその生命を瑞々しいものにしてきました。

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こうした自然観のもとで、日本人は、人間は生まれながらにして清らかなものであり、穏やかで澄み渡った心を持つものと考えてきました。そして、神社で神々をお祀りし、信仰する上で常に清浄さを大切にしてきました。神道の信仰は、人びとの生活の中で育まれてきましたが、日本人の生活基盤であった稲作農業との関わりの中で、その形式が整えられ、体系化されてきました。

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稲米は、皇室の御祖神(みおやがみ)である天照大御神(あまてらすおおみかみ)が私たちの祖先に授けられたものと、日本の神話は伝えています。日本の古名を豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)といい、稲穂が豊かに実る国と称えてきました。稲米は、日本の国柄そのものを象徴するとともに、私たち日本人にとって稲作は、神々から授けられた神聖な営みでもありました。

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そのように自然豊かな日本国なのですが、私は四季はこの緯度のおかげ、世界のどこに行ってもこの緯度なら四季が存在し・・・。と思っていたのです。しかし日本と同じ緯度で地球をチェックすると実は砂漠地帯が多く、このように実際に植物(木々)の種類も多く、緑に囲まれる環境を持った四季のある地域(日本)は実は非常に希有な地域なのだそうだ。(出典:NHKの番組)実際グーグルを見てみた。

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ほら、本当だ。アフガニスタンやイラク、チベットなど名だたる砂漠地帯だ。NHKによると、海流や気流や周りの海の環境が生み出した奇跡の環境らしい。

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実はコンテナハウスは海外からのオファーも多い。概ね「砂漠地帯」(爆)だ。石油や鉱石、天然ガスなどを採掘する場所での「アコモデーション(居住区)の為の施設としてオファーがやってくる。オーストラリアなども多いのだ。オーストラリアに限っては実はそのようなユニットを製造している専門の会社があり、なかなかの供給元になっている。

我々はそれらのアコモデーション(作業員宿舎)に特化した事業をやっている訳ではないので、少々腰が引けるが、東北の震災以降その復興の為の作業員宿舎としてのオファーも多い。これに関しては出来るだけ協力をしたいが、コンテナハウスのなんちゃって業者もそれを狙ってずいぶん増えたらしく、金額の戦いになったりする。当社はコンプライアンスを守る事を社是としているので、これらの業者さんの価格帯にはなかなか落ちて行けなくて仕事を獲得する事はあまり無い。建築を真摯に勉強してきたものとしてはある一線を切って降りて行けない場所がある。建築基準法が万能な法だとは思わないが、我らが「豊葦原瑞穂国」(日本の美称だ)は法治国家だ。法によって秩序を生み出す民主国家において法を無視した活動は企業活動として行う事は出来ない。法を守るという事は国民の安心安全を確保し、財産を守れる建築物を作る為に建築基準法が存在する。その事を積極的な意味を持って守ろうとすると落ちて行けない場所は存在するのだ。

そんなわけで、美しい国日本に生活する国民は、コメ好き日本人が生成されたわけですが(爆)、実はパンも美味しい事を知って欲しい(爆、そっちに行くのか~)。日本のパン文化は主食がコメであったために「おやつ」的な「菓子パン」の文化に走ってしまいました。木村屋のアンパンを筆頭にクリームパンジャムパンといった具合です。給食でコッペパンが配られ、コッペパンのヴァリエーションとして焼きそばパンだの、コロッケパンだの、総菜パンという特殊な発展の方向へも繋がりました。でもまあこれはサンドィッチの日本版でもあるわけです。ただし、なかなかまだ貧しい戦後の食料事情を反映して作られた総菜パンなので、今思えばコッペパンと焼きそば?コロッケとパン?って不思議な炭水化物組み合わせになっています。なぜか巷では、この組み合わせはコッペパンの黄金組み合わせという事で未だにパン屋では人気の商品です。多分美味しいからではなく、懐古趣味系の刷り込み組み合わせだろうと私は思っています。

私がお勧めしたいのは、本格的な欧州系のパンです。パンドカンパーニュやバゲット、リュスティックやライブレッドなんです。ワインがかなり定着した昨今では、ワインを飲みながらの食事も増えてきました。そんなときは「パン」でしょう。ワインとパンとチーズ。この黄金トリオは私に言わせれば「黄金の発酵食品トリオ」と呼んでいます。ワインのある食卓にご飯というわけにはいかないでしょう。

当社のコンテナハウスは世界的な基準にも負けない内容を持ち、世界からのオファーもやってきます。東北の復興にも役立ちたい。美しい日本の情景にもマッチしたデザインで作り続けて行きます。

“La Ville radieuse”Le Corbusier(輝く都市)とコンテナハウス

そして、昔見た事のある懐かしい未来

東北大震災という出来事は、日本国民にとって、あらゆる価値が転換、逆転、大変化、パラダイムシフト、色々な言葉が当てはまり、うろたえた年になった。まだその余波は消えない。多くの建築家にとっても「建築のあり方が問われた」年になった。日本国そのものも、ささやかれる言葉はすでに「再生」「やりなおし」「逆転」はなるのかと、国の価値そのもの、あるいは経済的な価値がすでに崩壊し、それがを再生出来るかが論点となっている。経済世界は「虚構経済」の世界的崩壊を叫び、「実質経済」の発達へ戻るべきだと語る学者が増えた。

世界システムの危機はとうに20年以上前から論じられていたにもかかわらず、高偏差値経済人たちはマネーゲームで経済を引っ張って来た。そりゃそうだろう。それが出来る人材がもてはやされ、MBAたちはそれを目指した。生産をしない実態のない経済が世界を支配し、生産するものたちから利益を吸い上げて行った。今までは企業も社会的になればなるほど、その輪の中に取り込まれていたのだ。なくなりはしないが、それで生きて行けるものたちは漸減して行くだろう。

なぜなら、「経済社会における民主化」が世界中から巻き起こって行くからだ。「生産するものたち」は気づき始めた。「アラブの春」はなかなか成功しないが、経済を操るものたちからはなれて「知恵と知識」で「生産者たちの春」を作り始める。私は、資本主義容認者で社会主義者ではないし、対立して来たがそれは当然人生の中では対峙すべき好敵手「父」だからだったが、銀行家の息子だ。

まあ、それとは関係なく、戦後造られた世界システムが、グローバル化の中で大きなひずみを持って成長して来たこの現代の状況は、あまりにも理不尽で、そんな中での戦いはもうこりごりだ。実体経済を支えながら文化を形成していける正しい創造活動をしていきたい。

かつて1930年頃、建築界の巨匠「ル・コルビュジェ」は「輝く都市」という構想を発表し、近代都市の今後のあり方を主張して来た。当時ヨーロッパではあまり受け入れられなかったが、その後世界各国でそのコンセプトをベースに都市や建築が作られて行った。成功したとは言わないが、実際には現代社会の都市の多くはそれをベースに進んでいる。デファクトスタンダードだ。日本でもアークヒルズや六本木ヒルズはその思想に感動したという森ビル社長が「都市開発のコンセプトの原点としている」と公言している。

コルビュジェ著「輝く都市(1930年)」のスケッチ

3.11以来私はその時代は終わったと考えている。多様性が求められ、都市部と同じ方法で地域や地方を形成する事は出来ないし、リージョナリズムが強化されて行くだろう。
そして早い転換が出来た時に日本は再生する。

「昔見た事のある懐かしい未来に今後は向かって行くべきだろう」という言葉は実は「姜尚中(カン・サンジュン)」東京大学大学院教授(政治学)の言葉である。単純に過去へ回帰して行くのではなく「懐かしい未来」という言葉の中には実は多くの深い意味を内包しているように聞こえる。独特の語り口、正確な表現、頭の良さを感動を持って感じさせるこの論客は、私に中のスティーブジョブスの存在のようにすべてを肯定する訳ではないが(別種の世界ですが)韓国人にもこんなすごい人がいるのかと(いや、韓国人の事よく知らないが)、いつもこの方の発言には耳目を広められる。

「昔見た事のある懐かしい未来」とは、経済的活動も「実体経済」を中心に動き、造るべきものを造り、その中から文化が形成され、余裕のある者(企業)が、社会的信念に基づき行うべき活動に経済的支援を行い、育つべき者(物)が育ち、交換価値から使用価値へと価値観が変わり、サスティナブルな経済活動の中で世界が構成されて行った時に現れる。世界経済はより一体化し、TPPも常識のある自然なバランスの中で受け入れ、その間の約束も、どこかが一人勝ちするためではなく、あるいは過保護するためでもなく、行うべき規制は、あるべき規制の中で行われ、ルールを守りまさに「サスティナブル」である事が評価の基準になって行くだろう。

建築もそうだ。建築材料、その使い方、その中で消費されて行くものと生成されて行くもの、生み出される文化そのバランスの中で「真のサスティナブル性」が社会的に収斂されて行く事になるだろう。その着地点に到達するには大きな社会的努力が求められるが、その努力が払われれば払われる程、収斂ポイントには早く到達する事になる。「勝ち組になるために」という思想ではなく、企業は「勝たねばならない」のだが、勝ち残る事が「サスティナブル社会」への道になるという「賢い選択」を「社会が出来るようになる事」だと考える。

ちょうど、インターネットが社会デビューしたとき、情報を自ら取捨選択し、情報を選び抜く自分自身のチカラを付けなければ生きて行けない時代に入ったと私は常々論じて来た。それに加えて「サスティナブル」という言葉に象徴される「成長のモノサシ」を持たねばこれからの未来はあり得ない。その行く先に「昔見た事のある懐かしい未来」が待っているように私には思えてならない。

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写真はリートフェルト「シュレーダー邸」1924年(世界遺産指定)オランダ・ユトレヒト
※100年経ってもほころびないもの
求めるものがコンテナハウスの中にもあると信じている。

「ビーグル号航海記」とコンテナハウス

ガラパゴスを訪れた「ダーウィン」が記した、ガラパゴスの生物の記録が「ビーグル号航海記」である。生物の種について深い考察をしたダーウィンはその後「進化論」を発表する事になる。独自の進化を遂げたガラパゴスの島々の生物たちの観察によって。生物の種とは当時信じられていたように不変な物ではなく、変化しうるのではないかと考えるようになった。

概ね進化論は正しかったが、その後の研究では「進化」のきっかけは現在は「突然変異」が大きなトリガーとなっていると考えた方が自然ではないか?という事実は多くの研究者が認めている。つまり高い木の葉も食べられるようにジラフの首が少しずつ長くなったという考え方は難しく、突然変異によって長い首のジラフが生まれ、突然変異はDNAに組み込まれるため、子は首の長い、背の高い木の葉でも、補食するのに適した長い首のジラフが生まれ、生き残り、やがてジラフはその遺伝子を持つ子孫が繁栄し、首が長いジラフしかいなくなったという考え方だ。これはジラフで進化中の首が中くらいのジラフの化石や白骨化死体などが見つからない事によって自然と語られ始めた。

孤独な島「ガラパゴス」では、島の中だけで固有の進化をしたものだから、独自の進化を遂げ特有の種が多く存在するという結果にたどり着いたのだが、長い間、それらの種以外の生物にさらされないものだから、海を越えて「新たな種」がやって来たりする事が実はコワイ事件に繋がったりすることがあるらしい。

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まるで遭遇した事もない「種」がもし天敵的な脅威を持っていた時には、あっという間に「絶滅の危機」に立たされるというのだ。確かにそれは解るような気がする。「よゐこ」ばかりの都会の「私立小学校」に、九州の炭坑町から「洟垂れの空手得意な乱暴やさぐれガキ」。が間違えて転入試験を突破し、編入して来たら「よゐこ」達はひとたまりもない。いや、私立小学校がガラパゴスと言っているのではないが、やさぐれガキに絶滅の危機に立たされるのは間違いない。

「独自の、独特の文化の中で、高度な成長を遂げた」というと、何かピンと来るものがありませんか?そうです。日本国です。
これは「生物」の話ではありません。日本と書いて「ガラパゴス」と読んでもいいのです(爆)。日本企業の技術やサービスが、日本市場の中だけで高度に発展してしまう様子を言っている訳です。技術やサービスが特殊化しその結果、日本企業の海外進出が難しくなるばかりか、日本市場の危機も招いてしまう。
おまけに日本国は小学生から英語を教えているのに、こんなに英語が上達しない国民も少ないのかも知れない。それはある学者によれば「日本語の文法」が大きく邪魔をしているという話も聞いた事があるが定かではない。それらの障壁もあいまってさらにガラパゴス化が進む。

i-phoneの衝撃。そらやって来た「天敵的外来種」だ。黒船だー!。i-phoneは適切な例ではなかったかも知れない。ホンモノの天才スティ-ブンジョブスが相手じゃかなわない。IBM互換機ばかりの時代になっても、Macだけは生き残っている。その生命力にスティーブンジョブスの天才を感じないなんて、やっぱあなたは盗人ゲイツのマシンでも使ってなさい。
あ、話がそれてしまいました。そんな事は既に過去にもあったよ。NECの「独自規格」がIBM互換機にやぶれ独自規格を撤廃した。それまではPC-9800の独壇場だったけどね。世界に通用するものを造って行こうよ。さて、ガラパゴス日本の「独自進化技術」たちの中には、世界に通用する技術は多く存在する。概ねガラパゴス的なものとはそれらの技術を使った「サービス」がガラパゴス進化をしているのだ。

華僑的人生絶賛論 (日本が生き残るために)

華僑(かきょう)は、中華人民共和国の中国共産党政府の定義によると、「中国大陸・台湾・香港・マカオ以外の国家・地域に移住しながらも、中国の国籍を持つ漢民族」を指す呼称である。外国籍取得者の華人に対しても使用されることがある。中国を愛し、中国の家族も大切にしながら、国際的に活躍するある意味インターナショナルピーポーである。

世界に張り巡らせられたロジスティクス網、「コンテナのロジスティクス網」はガラパゴスシステムではなく、ワールドワイドシステムだ。建築がその特質を得る事が出来たら、ガラパゴス進化ではなく「ワールドワイド進化」をする事が可能だ。

コンテナハウスは今、世界中で動き出している。ロスアンジェルスの仕事が始まる。

コンテナハウスとモシェ・サフディ

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モシェ・サフディーという建築家がいる。読者達は上記の写真で見知っているかも知れない。シンガポールにあるビルだが、彼はルイス・カーンの弟子でもあり、ベースの活躍地はカナダだ。

最近作風がずいぶんと変わりシンガポールの上記の作品は「モシェ・サフディー」とは気づかなかった。なかなかどうも思いつかない画期的なビルであります。

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ずいぶん昔の事だが、ティピカルな彼の作品は下の写真で、メガストラクチャーの中にユニットが差し込まれたモントリオールの集合住宅がひとつの代表作でもあった。概念的には、最近書いた「ロバート・クロネンバーグの動く家」の実現版のようにも見える。クロネンバーグの場合は45度に傾斜したメガストラクチャーが全体を支え、その成長が無限である事を示唆する概念設計であったが、それを実現化するとこのようになるのかと思わせる実施作だ。

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RCで作られたユニットを「コンテナ」に置き換えれば、コンテナハウスのムーバブルハウスになる。写真からはすぐさまには解らないが、このユニット達は「メガストラクチャー」の上に乗ったり、吊り下げられたりしている。

わたくしどもが、コンテナハウスを開発して行く上でひとつのあり方としている作品だ。

コンテハウスと幾千のプラン集

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描いてきたプランはファイル数を数えても3000プランを下らない。「平面図・立面図・断面図」基本の図面だ。わたくしどもはそのプランを描いて行くとき、平面図の中にも、立面図の中にも、断面図の中にも人の姿を想いながらプランを進めて行く。

実は大きな悩みがあった。コンテナの横幅は外形寸法で「2438mm」。内法で「2150mm」程度だ。この寸法がヒューマンスケールという考えの元では少々寸足らずだ。それゆえ幾千ものプランを研究して来た。我々のコンテナは連結のシステムと拡張システムでそれに対応してきた。いわゆるサブシステムの開発だ。

「ユニット工法に自由度を」という考え方は、特に珍しい話でもないし、モジュラーハウジングというコトバの本当の意味はこの自由度を規則性のあるシステムの中に構築しようとしてきたものだ。西欧ではル・コルビュジェがモジュロールを唱え、日本にも古くから「木割り」という考え方が存在した。日本人の中では「畳のユニットサイズ」が古くから染み付いている。「立って半畳寝て一畳」。 あ、もう畳のない家も多くなりましたが、まだ日本人ならその寸法感覚は分かるでしょう。

工業化建築をアーティスティックなレベルに持って行くのが我々の目標です。

鉄とコンテナハウス

鉄への想い、現代建築素材、3つの原風景

水銀

幼少の頃、毎夏、父に連れられて夏休みの最初の週末は「海水浴」にいく慣習があった。海のそばに済んでいる訳ではなかったので、楽しみなイベントであった事を覚えている。バスや電車を乗り継ぎ、いつも決まった遠浅の海に連れて行ってくれた。海にアプローチする最後の交通手段は「私鉄電車」であった。日頃電車に乗る事はない年齢の頃なので「乗りもの」そのものが非日常であり、オトコを目指す少年には電車という「乗り物」も格好の興味対象であった。運転席の横の最先頭の窓の所に陣取り、進行方向と運転手の一挙手一投足を見つめる。なぜ「レール」の上を走る乗り物が出来たのか、その意味すら解らない年齢の少年は前方のレールを見つめる。そのレールの先には「海」が現れるはず。次第に景色が変化し、松の防風林などが現れ始めると海が近い事を既に学習していた。

レールは太陽の方向によっては「水銀を流した」ように輝き、車輪が走る面は光沢に満ちているのに、側面は錆色だ。そのコントラストは同じ「鉄」とは思えない。進行方向、見つめる先は「未来」だ。そして車内は「現在」。通り過ぎた景色は「過去」だ。なんだか本当にそんな風に思える。未来に向かって走る電車。この時輝いていたレールは「鉄」によって出来ている。レールをじっと見ると、そのソリッド感がたまらない。間違いなく「人工物」、しかも英知が生み出した人工物。30トンもの車両を支えるレールは、ソリッド感があるとはいえ、無駄な肉をそぎ落とした見事な形だ。

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鉄の事を考えたのはその時が初めてだろう。鉄道の本を読む。レールは時代とともに長くなり、ガタゴトいうその音の原因は「温度による膨張と収縮」を飲み込むための「隙間」を渡るときの音。現代では枕木に強烈なチカラでレールが固定してあり、その収縮さえ押さえ込んで「隙間」をなくし振動を抑えている。人知は発展し、様々な知恵をつけて行く。私の興味はしかし、電車にはいかず、レールという「鉄」に収斂して行った。

コンクリート

小生は「炭坑町」の生まれだ。竹を割った様な性格のさばさばした人間が多い、自ずとその性格は「短気」とも直結する。優しくて強くて押しが強くないと生きて行けない世界だ。その「炭坑町」は全国の炭坑町と同じく、新エネルギーの登場で衰退期であった。
街のそこここに「廃屋」がある。少年たちにとっては、イコール「遊び場」である。悪ガキたちと病院の廃屋でかくれんぼをしていた時だ。中庭に「井戸」があった。もう内部は土が入れられ廃井戸となっているから決して深い訳ではない。その中に隠れ、横たわり空を見上げると井戸の中から見上げた空は、井戸のまあるいコンクリートの縁に切り取られたまあるい空が見えた。コンクリートにきれいに丸く切り取られた空が奇麗だった。「空を切り取るコンクリート」。「コンクリート」を初めて意識した日だ。

コンクリート

ガラス

私が幼少の頃といえども、「ガラス製品」は普通に存在した。ガラスの器、ガラスコップ、窓ガラス。特段珍しい訳でもなく、いや、むしろ手の込んだ「切子のグラス」なども普通に存在した。工芸の世界である。昭和の30年代の事だ。まだテレビが普及し始めようとしていた頃だろう。家のテレビを見に、近所の子がやって来ていたりしていた事も覚えている。そのテレビのニュースを見ていた時、海外のニュースを伝えるコーナーでフィリップジョンソンの「ガラスの家」が紹介された。実際の建設年からすると数年経っての紹介だ。だんだん噂になってからの紹介だったのだろう。
フィリップジョンソンという建築家の作品とその時伝えたかどうかは記憶にないが、その映像を明確に覚えているのでミースファンデルローエの「ガラスの家」ではなく、フィリップジョンソンのものだとわかる。その事実は今となって分かる話だが、そのときの衝撃は「ガラスで家を造れるのか」という驚きだった。家の中を動く人の姿もニュースの中では見え、当時「未来感覚」を感じた事を覚えている。衝撃的に「ガラス」を初めて意識した日だ。

ただ、気の利いた日本人なら、こんな建築、昔から日本にはあるじゃん。という事を思うかも知れない。木造軸組工法(日本の伝統的木造工法)のビジュアルには近く、ブルーノタウトが海外に紹介し、多くの海外の建築家に影響を与えた桂離宮なども同じジャンルに見えるかも知れない。障子の部分がガラスになっただけじゃん。って。しかし、構造の方式は大きく違う。

ガラスの家
ミース・ファンデルローエ(ガラスの家)

ガラスの家
フィリップ・ジョンソン(ガラスの家)

※余談 ミースとフィリップ・ジョンソンのガラスの家の大きな違いは、ミースのそれは「宙に浮き」フィリップ・ジョンソンのものは大地にどっしりと根ざしている。重力からの解放を狙ったミースと、大地の上の空間を切り取ったフィリップ・ジョンソンの思想は大きく違う。しかし彼らはよく仕事を共にしている。ミースは根っからの大建築家、フィリップ・ジョンソンは哲学者からの変異建築家。「技術的技量」と「美意識」の総合力はミースという一般的認識は、両作品を見るとわりと明確か・・・・。

「鉄」「コンクリート」「ガラス」。それらは人工物でありながら現代生活ではしっかりと根付き、まるで自然素材のように存在している。この三つは言うまでもなく「現在建築の三大素材」である。現代でもなおこの建築3大素材に加われるものはない。あとは性能を上回る特殊代替品や、その特性をさらに拡大させた改良品が多い。人が作り出した素材ではあるが、すべて元は自然のもの、人為的な化学的成分などは入っておらずその部分でも長く使われる素材としての要素を持っているのかも知れない。

鉄は日本の高度成長期を見守りながら成長して来た。他の要素も同じであるが、様々な利用方法は、その多様な形を「整形」出来るからこそ生まれた世界がある。そして「溶接」という「結合方法」から生まれる世界もより多層的な世界を生み出した。コンテナハウスも鉄骨造である。溶接の技術は極めて重要な要素である。コンテナハウスに興味を持つあなた。もしも本気で考えるなら、頼もうとしている会社に「溶接について語ってもらえないでしょうか?」と聞いてみてください。溶接について楽しげに語ってもらえる会社に依頼するのがいいかも知れません。